| 高橋紹運 タカハシ ジョウウン |
| 1548〜1586 |
弥七郎。(孫七郎という説あり)。鎮理(読みはシゲマサあるいはシゲタダの二説あり)。鎮種。主膳兵衛。主膳入道。 |
| 父は吉弘鑑理。母は大友義鑑の娘。兄は吉弘鎮信。妹は吉弘菊(大友義統正室)、戸次宗傑の妻の二人。妻は斉藤長実の娘、宋雲尼。 |
| 1561年の対毛利戦の門司城合戦で初陣を飾る。しかし、毛利水軍に制海権を奪われたため大友氏は大敗。初陣にて毛利軍の追撃による命からがらの撤退戦を経験する。 1569年、多々良浜合戦に参戦。病気で不調な父の鑑理を補佐し、兄の鎮信とともに吉弘隊を指揮し、撤退する毛利軍にたいし追撃を慣行。撃破した。 多々良浜合戦で、立花山城と岩屋城の両城督がそろって毛利氏に寝返ったため、大友勢の苦戦を招く結果となった。そのため大友氏はこれら立花・岩屋の両城督には信のおける人物を配置した方がよいという事になった。そこで選ばれたのが忠義者の一族として大友家中で信頼されている吉弘一族であった。 兄の鎮信はすでに吉弘家督を継ぎ、吉弘家の本城である屋山城の城督に就任する事が決まっていた。そのため家中で高い評価を得ていた弟の鎮理が1570年5月、岩屋・宝満二城の城督に就任する事になった。 そのため鎮理は大友宗麟の許可を得て吉弘姓をすて高橋の名跡を継ぎ、高橋氏の通字である「種」の一字をとり吉弘鎮理あらため、高橋鎮種と改名した。 これにより、完全に高橋家の人間になる事で、旧高橋家臣の心をつかんだのである。 その後、1578年に剃髪し紹運と号す。世に知られた「高橋紹運」の名になったのは、この時である。 同年、耳川合戦で大友氏は島津氏に大敗。この合戦で吉弘鎮信と斉藤鎮実が討ち死に。奇しくも紹運と宋雲、夫婦そろって兄を失う事となった。 この敗戦以来筑前各地で国人衆が龍造寺氏に寝返り、衰えた大友氏に牙を剥きはじめた。そのため紹運は立花道雪とともに、筑前防衛のために龍造寺方の先鋒である秋月氏・筑紫氏らを相手に獅子奮迅の戦いをした。 しかし、1584年に沖田畷で島津・有馬連合軍と龍造寺軍が激突。この合戦で龍造寺隆信が敗死すると筑前・筑後二国における龍造寺氏の支配力が弱まったため、同年、大友氏は筑後国回復を狙い、筑後に派兵した。しかし、経験不足の若い武将ばかりだったため、大友氏の筑後回復は遅々として進まなかった。 そのため大友氏は歴戦の立花道雪と高橋紹運を筑後戦線に投入する事を決めた。そのため紹運と道雪は領国である筑前を留守にするという危険を冒さなければならなくなった。案の定、秋月種実が道雪不在の立花山城を攻めたが、留守を預かっていた立花宗茂の夜襲により撃破された。 道雪・紹運を加えた大友軍は両将の活躍により快進撃をつづけ、黒木家永の猫尾城を落とし、山下城の蒲池鎮運を降伏させ、山門郡の龍造寺諸城を落とし、筑後における龍造寺勢力の最重要拠点である柳川城をも脅かす勢いであった。 一時は高良山下合戦で龍造寺勢を破ったものの豊後勢が戦線を離脱し帰国するなどの事態がおこったため、戦力の減少により勢いは失速。その上、大黒柱の道雪が陣没したため撤退となった。 その後、龍造寺氏は島津氏に従属。島津氏の攻撃目標は大友氏だけにしぼられる事になった。 1586年、島津氏は五万の大軍で岩屋城を包囲。降伏勧告をするも断られたため、七月十四日、総攻撃を開始。しかし、すさまじい抵抗にあったため、二十六日にもう一度降伏を勧告するが、やはり断られため攻撃再開。二十七日落城。 享年三十九歳。 |